希林さんとヒデキと、ツイッターの「マンスプレイング」と『説教したがる男たち』のこと

樹木希林さんは、5月、西城秀樹さんの訃報に接して、次のように言ったそうだ。

「わたしは死というものに思い入れはないんですが、昨日はこたえました」

「あのはつらつとした、屈託がなくて、嫌な感じをいっさい振りまかない、ああいう人が . . . 」

けさは、その希林さんとヒデキが一緒に映った写真に、メソメソしている。

寺内貫太郎一家 . . . きんおばあちゃんの「ジュリー」が大好きだった。

希林さんは、沖縄・辺野古へも行ってくれたんだよね。

◆ 樹木希林辺野古に現れた日! 米軍基地反対の座り込みをするおばあの手を握って . . .

http://lite-ra.com/2018/09/post-4258.html

だから、広島のことに一所懸命だったヒデキとも、よけいに気があったのかもしれない。

二人とも、ほんとうに、ほんとうにありがとう。

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前の日記の一部を、Twitter にも載せた。

「マンスプレイング」という言葉について、レベッカ・ソルニットの新しい本について。

人が作ったものを批判するのは、好きじゃない。まったく気が進まない。女性の仕事の場合にはことさらだ。その人がガラスの天井を壊しながら、ずっと頑張ってきた成果かもしれないから。

それでも、口の中がザラッとしたことだけは、書いておこうと思った。

『説教したがる男たち』の扇情的な帯が悲しかったし、わたしと同じように「マンスプレイング」を女性から受けた人がいるかもしれない。

そうなんだ、大学に行ってなかったり、スナックやバーで働いていたりすると、それだけでけっこう標的にされてしまう。あと、結婚しているのに子どもがなかったりしても。

自分のことを性差別の「被害者」だと思っている人たちは、自分が加害していることには、なかなか気づけない。

女性に限らず、被害者意識の強い人は、自分が加害者だってことに耐えられない。きっと自己イメージが「いたいけで優しい人」なんだろうな。そんな自分が誰かを傷つけるなんて有り得ない、想像できない。だから、認めるの、難しいのかもしれない。

そんなことも、ときにはあり得る、って思ってもらえたらいいな。

そもそも、「マンスプレイング」という言葉や概念が、おそらくは生み出すさらなる分断を、望まない人だっているだろう。

この日記や、一連のツイートが、そういう人たちへの、エールになったらうれしい。

検索したら『説教したがる男たち』は、あちこちで好評を得ている様子。

よかった。わたしの感想のせいで、困るようなことはなさそうだ。

だからわたしは、手紙を入れたボトルを流そう。

どこかにいる、誰か、おそらくは未来の妹たち、に向けて。

どうか、言葉のひとつひとつが、断罪や復讐のためじゃなく、理解し合うために、人を救い、守るために、使われますように。(祈)

https://twitter.com/yummy12steps/status/1041181708324765697

吉永小百合さん「言葉が出ません」 樹木希林さん死去

(朝日新聞デジタル - 09月16日 20:12)