近代日本の女優第1号

ご存じですか?川上貞奴。 「近代日本の女優第1号」の称号を与えられた人です。 明治〜大正初期、欧米でまず名をあげ、その後、日本へ。 生まれたのが明治7年、亡くなったのが昭和21年ですから、ご存じないのがアタリマエ。 川上貞奴は、「オッペケペ〜節」で一世を風靡した明治時代の興行師、川上音二郎奥さんだった人です。 ちなみに川上音二郎が興した芝居劇団が後の「新派」です。 こうして見ると、極めつけの美人とは思えないのですが、これがアメリカから、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインとヨーロッパを席巻した日本で初めての国際派女優となったのです。 貞奴は東京、日本橋の両替商「越後屋」の子供として生まれました。 ところが生家が没落して、7歳の時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女になってしまうのです。 日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は、12歳でお酌となり、15歳で時の総理 伊藤博文に見初められています。 他にも、横綱小錦や歌舞伎役者の中村福助(後の5代目歌右衛門)、西園寺公望など名立たる

有名人から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となりました。 たまたま、中村座で観たのが、川上音二郎壮士芝居。 これで貞奴の人生は一変します。 貞奴は、音二郎を生涯かけて支えようと、心に決めてしまったのですな。 それでも、最初は舞台に立ちませんでした。 有力者に音二郎の助力を頼む女房役に徹していたのです。 ところが、音二郎が突然、渡米を云いだしたのです。 妻として貞奴も同行します。 するとアメリカのマスコミが総理大臣や高名な歌舞伎役者の愛人でもあった「日本一の芸者」に湧きたちました。 興行主は、音二郎ではなく、貞奴の舞台を熱望し、しかたなく貞奴は舞台に立つことになったのです。 ついにマッキンリー大統領夫妻が観劇し、その後行ったイギリスでは皇太子エドワードを迎える光栄にあずかったのです。 1900年のパリ万国博覧会に参加すればロダン、ジイド、ピカソドビュッシーと物凄い顔ぶれが貞奴の演技とエキゾティシズムに夢中になったのです。 音二郎と貞奴の間に子供はありませんでした。 代わりに姪のツルを子供のようにかわいがって、アメ

リカ興行にも連れていったのです。 が...現地で公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生。 一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされ、困窮からツルをアメリカ在住の日本人に養女に出してしまいます。 ツルは青木鶴子と改名し、女優になりました。 アメリカで、アジア人として自分の名を冠した映画をもち、映画ポスターに名を飾った初の女優さんとなったのです。 そして1910年代の草創期、ハリウッドで映画デビューして一躍トップスターとなった早川雪洲と結婚しました。 海外からの帰国後も、貞奴は舞台に立ち続けました。 そして音二郎の死。 音二郎は明治44年、急性腹膜炎により昏睡状態となり、貞奴の願いで運ばれた帝国座の舞台上で死去しました。 「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られます。 貞奴は、音二郎死去後も遺志を継ぎ公演活動を続けますが、ほどなく大々的な引退興行を行い、「日本の近代女優第1号」として舞台から退きました。 女優を引退した後の貞奴は、昔、悲恋と終わった相手と再び結ば\xA4

譴襪里任后\xA3 それは福澤諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家 福澤桃介です。 ここからのくだりは1985年にNHKが大河ドラマで「春の波涛」と云うタイトルでドラマ化したのでご存じの方も多いでしょう。 桃介との馴れ初めは明治18年頃にさかのぼります。 (川上音二郎と結婚したのが明治24年です) 馬術をしていた貞奴が野犬に襲われるのを、学生だった桃介が野犬を追い払ったのが縁で2人は恋に落ちます。 しかし、翌年に桃介は諭吉の二女 房と政略結婚させられます。 桃介が通う慶應義塾では、しばしば運動会が開かれるようになって評判を集めていました。 駆け足が得意な桃介を、たまたま福澤諭吉が、娘の婿選びの機会にと妻や娘を連れて見物していたのです。 そこで運動会での桃介の姿が諭吉の妻 錦の目に留まり、卒業後の洋行(留学)費用を出すという条件で桃介を婿養子に誘い、桃介の側もこれを承諾して養子入りが決定したのです。 桃介のもとの姓は岩崎でしたが、このときから福澤に変わったのですな。 桃介が留学に向かう出発直前に、貞奴は桃介に会\xA4

い帽圓①◆嵎發狄誉犬亙漫垢任癲△△覆燭呂△覆拭∋笋六笋瞭擦派❹困篝侮硑靴泙靴腓Α廚函⇔泙盡ǂ擦叉ぞ罎妨譴辰燭髪召ο辰任后\xA3 それからの長い期間、貞奴と桃介は別離を挟むことになります。 卒業した桃介は相場師として日露戦争後の株式投機で財を成し、その後実業界に転じます。 名古屋電灯を買収して社長となり、木曽川などで水力開発を手がけ、後に大手電力会社大同電力の初代社長となったのです。 女優を引退した後の貞奴は、悲恋の相手だった桃介と再び結ばれます。 後半生、桃介はどこへ行くにも貞奴を連れていたようです。 このころ、桃介の妻 房は、東京渋谷区広尾の400坪もある敷地に、母屋と別棟の2棟新築し、敷地内で別居生活をしていました。 桃介が名古屋電灯社長時代だったころ、桃介は名古屋の東二葉町に和洋折衷の邸宅(「二葉御殿」)を建設し、貞奴とともに暮らしました。 桃介が財界から引退した後も桃介の別邸「桃水荘」でともに暮らしています。 二葉御殿は戦後、桃介が設立した会社のひとつである大同特殊鋼の所有となり、「二葉荘」の名で福利厚生施設として使われました。

その後、建物の老朽に加え、所有者側の事情もあって現地存続は難しくなり、最終的には名古屋市が建物の寄贈を受けました。 名古屋市は、他所で創建時の姿で移築・復元を行い文化施設として再利用しています。 二葉御殿はサロンさながら、訪れた税財界の要人は口ぐちに貞奴の美しさ、才気と桃介との仲睦まじさに目を見張ったそうです。 作家の長谷川時雨は、初老にさしかかった桃介と貞奴を見かけた折に「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやう」だと驚いたと云います。 桃介は、昭和13年、脳塞栓で死去。 貞奴はそれから8年後の昭和21年に膵臓癌により死去しました。