今週はこんな本を読んだ ?541 (30.10.14) 「黒の謎」

今週はこんな本を読んだ ?541 (30.10.14)

「黒の謎」  講談社文庫  06年7月初版 791円

江戸川乱歩賞作家による書下ろしのアンソロジー「赤」「白」「黒」のうちの「黒の謎」の一冊だ。

この一冊には、「花男(鳴海章)」、「グーテスト・ロマンス(桐野夏生)」、「ひたひたと(野沢尚)」、「声(三浦明博)」、「秋の日のヴィオロンの溜息(赤井二尋)」の五編が収録されている。名前だけは知っていて本屋さんで単行本を手に取ったことくらいはある鳴海章、桐野夏生野沢尚、乱歩賞を受賞したという名前の記憶も、あの頃も今も本屋さんの棚で名前を見たという覚えもない三浦明博、赤井二尋の五作品ということになる。

花男」。長編「風花」は同名タイトルで01年に映画化、この「花男」は「風花」の五年後を描いた後日談、と解説にあった。北海道の冬の北海道が物語の舞台だ。主人公は地元採用の臨時雇いとしてスーパーの配送センターに勤めて五年になる。どこにいても誰といても自分の居場所ではないと感じてしまう。本当におれはここにいていいものだろうか。一体、おれはどこから来て、どこへ行くのだろうか、という寂しい男の生き方が描かれている。いつかどこかで破綻というかハードボイルド的な展開になるのかな、と読み進めたが最後まで淡々としたものだった。前作品の「風花」という小説を知っている人なら面白く読んだかもしれないが、私には残念な一編だった。

「グレーテスト・ロマン」の桐野夏生は「顔に降りかかる雨」で乱歩賞を受賞している。他に「OUT」や「和かな頬」など読んだことはないが書名だけは知っている作家の作品だ。

女を殺した罪で千葉刑務所に収監された「俺」、「この日常があと九年以上続くという現実。俺はまだ入って十カ月しか経っていない」。刑務所内の工場で反抗したとされ保護房に入れられている。そこで妄想する。妄想を育て「俺」を警察に売った女に会いたいためだけで脱獄を決意する。

物語として「俺」の妄想の世界を描いているのだが、それは最後の最後に分かる仕掛けになっている。

ミロという女に会って殺そうとするところで現実に戻る。「俺」は保護房のなかにいた。「すべて夢だったのだ。俺は愕然として青白い光に照らされた矩形の部屋を見回した。現実に戻らなくても済むよう、早く狂わなければならないと焦りながら」という一行で終わっている。

「グレーテスト・ロマン」というタイトル、「ロマン」かもしれないが、決して「グレーテスト」ではないような気がする。

「ひたひたと」の野沢尚はテレビドラマの脚本家としてスタート、「破線のマリス」で乱歩賞、テレビドラマの脚本で向田邦子賞吉川英治文学賞などいくつもの文学賞を受賞、テレビ作品、映画作品など多数、さらに小説も多数と「著者紹介」にあった。他の作家の「著者紹介」が五行から七行のところを十六行も費やして紹介されてあった。野沢の作品は「ミステリー・アンソロジー」で何作か読んでいるが、物語を作る才能に溢れた人、という印象を持っている。

小四の夏休みの自由研究で図書館からの帰り道、白い半そでの夏服、黒いズボンとい制服姿の少年に、道端の農機具をしまう倉庫に誘い込まれ、陰部を触られるという経験をした、それがトラウマになっている女性が主人公だ。少年が自分を追いかけて来るひたひたという足音に悩まされている。

29年前の少年は誰だったのか、それを突き止めようと試みる。そしてその少年が今の自分の夫だったと知る。「ああした行為が女の子のその後をどれほど苦しめることになるのか、君の人生が惨憺たるものになったら、僕は死んで詫びようと思った。だから君の二十九年を見守り続けた」と夫は言う。これで終わるとハッピーエンドだが、物語はこれで終わらない。もうひとつ回転してぞっとするような終幕が用意されてあった。ただ「ひたひたと」というタイトルだけが気になった。真夏の舗装されていない砂利道、制服姿の少年が履いていたのはいわゆる運動靴だろうか、それでは「ひたひた」という感じはどこにもしない。

「声」は川を遡ってイワナ釣りをしている若者が主人公だ。釣り師だった父親とその友人の話、そして父親が主人公の息子に残したものの話で、殺人事件も名探偵も登場しない。

川を遡っていく主人公の後を追いかけるようについてきた男が、川を渡ってこちら側に来ようとして急に増水した川の水に流されてしまう。上半身は水没し下半身が水面に浮かんだ状態で流されてきたところを引っ張り上げる。雪代の融けた水は電気が走ったかと勘違いをするほど冷たかった。岩の上に引き上げ自分が持ってきた着替えを渡し濡れた服を着替えさせる。そこで助けられた男がホワイトガソリンのクッキングストーブで湯を沸かしコーヒーを淹れ、自己紹介をしながら昔話をする、というシーンが語られているが、ここはウイスキーでも飲ませて即病院に連れて行かなければ低体温症で命取りになりかねない。のんびりとコーヒーを淹れて飲んでいる場合か、と思った。

「秋の日のヴィオロンの溜息」は、全集の発刊を記念して来日したアインシュタイン博士夫妻が、帝国ホテルに着いて荷物を確認したところ、博士が子供の頃から大事にして使ってきたバイオリンが別のものと入れ替えられている、という事件を早稲田大学言語学のトドロキ教授と助手の井上が解決する、というお話だ。日本に向かう船旅の途中でノーベル物理学賞受賞が決まった。船が着く神戸港アインシュタイン博士を一目見ようと溢れんばかりの人で、神戸から京都、東京と日本各地は大勢の人で溢れかえっていた。大正11年は日本国中大変なアインシュタインブームになっていた。日本で盗まれたとなると困ったことになる。だから警察に届けてことを公にしたくない。そこで「僕は私立探偵、趣味で早稲田の教授をしている」と自ら言うトドロキ教授のところに相談が持ち込まれた。教授の助手で私立探偵の助手でもあった井上は後に早稲田大学の総長になり、自分の「回想録」のなかでインタビューに答える形で、このアインシュタイン博士のバイオリン盗難事件について語っている部分を引用して最後を締めくくっている。

早稲田の政経を出たという著者略歴を見て、それで早稲田の教授と総長が主人公かと納得した。